高知県中土佐町の久礼港区域は、太平洋沿岸部の土佐湾が大きく湾入した地点にある。地の利に恵まれた久礼の港「久礼港」は、中世から近世にかけて、四万十川流域を中心とした領域各地で生産された物資を、関西方面へ搬出する重要な港の一つとして発展してきた。同時に他地域から物資や情報を取り入れる要港としての役割を担ってきた。
高知県中土佐町の久礼港区域は、太平洋沿岸部の土佐湾が大きく湾入した地点にある。地の利に恵まれた久礼の港「久礼港」は、中世から近世にかけて、四万十川流域を中心とした領域各地で生産された物資を、関西方面へ搬出する重要な港の一つとして発展してきた。同時に他地域から物資や情報を取り入れる要港としての役割を担ってきた。
中世〜近世期にかけて繁栄した港を核として形成された市街地が、鰹漁と共に発展した漁師町や漁港と相まって形成される独特の文化的景観
【漁師町としては全国初の国の重要文化的景観に選定(平成23年2月7日)】
高知県中土佐町の久礼にまつわる歴史を紐解くと、13世紀中頃の資料では久礼は「加納久礼別府」として土佐一条家の幡多庄に含まれており、一条氏の久礼への注目度の高さが知れる。
また、久礼湾に注ぐ久礼川の支流で発掘された「坪ノ内遺跡」や久礼字城山下越の西山城跡から発掘された遺物などから、久礼港を中心とした海域での様々な流通・往来が、既に14世紀頃から行われていた事が分かる。さらに15世紀頃からは、佐竹氏の久礼城が久礼の中心的な城として機能するようになり、久礼城跡周辺部への人々の居住が進み、現在の久礼地域の発展の基となっている。
このように近世初頭には、城郭・家臣居住地を取り込んだ、港湾機能に重点を置く市街地が形成されており、現在の久礼港を中心とする景観はこの市街地の構造に基づいて形成されたものである。海運による交易は、久礼の町並みにも多様な文化をもたらし、”水切り瓦”や”土佐漆喰”など台風の常襲地域に住む人々の知恵と暮らしの中に受け継がれている。家屋が密集した久礼の漁師町では、玄関脇の流しで魚をさばく人々の暮らしを見ることができる。
この久礼地区の主な景観要素としては、今なお現役の漁港である久礼内港および久礼外港、土佐三大祭りにも数えられる久礼八幡宮秋季例大祭の久礼八幡宮、県内外の観光客の人気スポットとなっている久礼大正町市場、林産物の交易盛んな往時を偲ばせる旧炭倉庫群および桟橋跡、いつの時代も久礼の漁師を見守り続ける恵比須神社、高知県内最古の酒造メーカーである西岡酒造店のある本町商店街通り、古き時代に林産物の積出港として栄え、また近くに土佐十景にも数えられる双名島を望む鎌田港などが挙げられる。久礼を含む周辺地域には、これらの文化的景観以外にも多くの観光・宿泊・レジャースポットがあり、また5月のかつお祭りをはじめとして四季折々のイベントが開催され、県内外観光客の人気スポットの一つとなっている地域である。
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久礼港は土佐湾が大きく湾入した中土佐町海岸部の中心に存在する。その久礼湾に注ぎ込む久礼川の河口付近に久礼内港と外港がある。北西の風が吹く冬場の晴れた早朝、久礼川河口から久礼湾にかけて川霧、海霧の幻想的な風景が現れる。久礼港は早くから四万十川流域の山林資源の移出港であり、また同時に鰹漁や鰤漁などの漁業により繁栄した港でもある。それらの生産活動や商業活動における陸路・海路の結節点として重要な役割を果たしてきた港である。古来より久礼地区は鰹漁などの漁業と共に木炭などの林業も盛んであった。
久礼湾は、南部の半島状に突き出した丘陵側から北に向かって浜堤が発達している。久礼八幡宮は、この浜堤微高地に鎮座、久礼港はこの浜堤防の北側に位置し、久礼川・長沢川の両河川による扇状地、三角洲の様相を呈する。天正16年(1588年)の『長宗我部地検帳』には、久礼港湾を中心とした浜屋敷(ハマヤシキ)の記載が見られ、港湾機能を重点においた領国経営の様子がうかがえる。
久礼港区域には、水産業や林業など自然と係わる人の営みが長い年月に亘って行われた事によって創出された景観が良く残っている。 具体的には、山林資源の流通・往来と漁業によって創出された景観である久礼内港・外港、鎌田港、大正町市場、旧炭倉庫群、桟橋跡、久礼八幡宮などであり、
これらは久礼地域の歴史とその変遷およびそれぞれの時代の久礼の人々の生業の有り様を内包する地域固有の文化的景観である。 久礼地区の人々の意識の中においては、好景気だった頃の鰹漁や四万十川流域の山地から運ばれてくる木材や炭等の移送に伴う生業など、往時の活気は遠い過去の記憶ではなく、つい最近の記憶のように克明に刻み込まれている。それらが現代の暮らしの中における相互扶助の形や文化として継承され、地域資源を活用した町の振興へと繋がっている。
ふるさと海岸から太平洋・久礼湾・双名島の眺めは絶景で、久礼外港周辺は写真愛好家による”日の出”、”ダルマ朝日”、”海霧”、”出漁”などの写真撮影スポットの一つでもある。
久礼八幡宮は、古くは正八幡宮とも称して旧久礼村の郷社であった。秋季の祭礼である”久礼八幡宮秋季例大祭”は、土佐の三大祭りの一つにも数えられ賑わいを見せる。久礼八幡宮の歴史は古く、その創建は明徳年間(1392〜1393)、慶永年間(1394〜1427)、嘉吉年間(1441〜1443)などの諸説があるが、宝永4年(1707)の大地震「宝永地震」の津波により宮殿が破壊され棟札も流出したため、その創建年の特定は困難になっている。
久礼大正町市場を中心とする古い町並みは、古くからの漁業と交易を基盤に発展した商店街であり、久礼の漁師町を象徴する建築物が建ち並んでいる。 明治時代から地元の台所として賑わう久礼大正町市場、公道40mの両側に十数戸の建築物が建ち並び、店先には午後二時過ぎから朝どれ・昼どれの新鮮な魚介類・野菜などが所狭しと並ぶ。明治の中頃の闇市が市場の起源で、久礼浦に暮らす漁師の女将さん達が、ヒメイチ(姫市、ヒメジ、ヒメジ科の魚)の炒りジャコを売り始めたのが最初とされる。
中土佐町の久礼地区は、藩政時代から物資の集散地として栄え、明治期になると陸路が整備されてきた事により、さらに高南・北幡地域の林産物の積出港としての地位を高めた。これに伴い久礼では木炭や材木を扱う商人が増え繁栄してゆく。久礼八幡宮前のふるさと海岸には、桟橋跡が残っている。この辺りは、近世・近代期に米や山林資源の積み出しで賑わった海岸である。
恵比須神社は、久礼外港近くの恵美須町の居住地にあり、船霊信仰と共に久礼の漁業に携わる人々が篤い信仰を寄せている神社である。 藩政期の久礼浦の図面上では、恵比須神社は居住地の外れに存在するが、いつの時代においても恵比須神は人々に親しまれ、久礼の浜の変遷を見守り続けてきた。
久礼外港や久礼漁民センターに隣接する辺りを、住民は上町(うえまち、うわま)と呼ぶ。この辺りは土佐の海辺特有の住環境で、比較的狭い敷地に隣家とほとんど隙間無く接している。
中土佐町久礼の本町商店街通りは、高知県で最古の酒蔵が残る商店街であり、近世・近代期に建築された民家・商家が多く見られる。それらは土佐漆喰、町家の形式、水切り瓦を多用するなどの伝統的な建造物となっている。これは、昔の大野見地区から久礼地区へ至る主要道路が、この本町商店街を通っていたことの名残である。また、街路には煉瓦造りの塀が残っており、この煉瓦は四万十上流域の木材の搬出等で栄えた久礼港まで関西圏から運ばれたものである。これは当時、本町商店街が久礼の中心地であったことを示している。
久礼において藩政期からの酒造文化を伝える酒造所『西岡酒造店』は、この本町商店街にある。町道に沿う店舗付近は、昔の久礼の銀座通りであったという。帰港した漁師達が気前よく賑わった本町商店街通りであった。
中土佐町久礼の鎌田港は、昭和10〜30年代に林産物積み出し港として賑わった。大野見・松葉川、北幡の大正・窪川方面および地元の久礼山間部からの木材・炭・薪(地元で束木[タバキ]と呼ばれる)を阪神・和歌山方面に移出するための港として栄えた。当時の鎌田港には徳島の船や地元の動力を付けた木造船が入港していた。
鎌田港の近くには、土佐十景の一つとされ、鬼ヶ島の鬼にまつわる話でも有名な「双名島(ふたなじま)」がある。まだ鎌田港が小規模で港湾施設も十分でなかった昭和10〜20年代に、町が”久礼港拡充期成同盟会”を組織して中央等各方面に働きかけた。その際に最も力を入れたのが、この双名島と岩礁を結ぶ防波堤の築造であったそうである。この防波堤は総延長294mの長さで、工事は6年(昭和24〜29年)の歳月を要した。