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四国八十八ヶ所巡り 添蚯蚓(そえみみず)遍路道
四国八十八ヶ所巡り 添蚯蚓(そえみみず)遍路道 |
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| 36番札所青龍(しょうりゅう)寺と37番札所岩本寺の間に位置する、中土佐町久礼から四万十町床鍋の七子峠(ななことうげ)に抜ける遍路道「添蚯蚓」。その奇妙な名前は、ミミズがはった跡のようにうねうねと曲がりくねっていることから名づけられたと、約300年前の「土佐州郡誌」に書かれています。約5kmの古道は峠越えの難所です。しかし、江戸時代は、高知から幡多に行く往還(現在の国道)として、最重要の役割を担っていました。土佐藩主の山内氏も添蚯蚓を通り、幡多まで巡検に赴いています。 道中には過去に人が往来した証として、遍路石や石畳、遍路墓(お遍路さんのお墓)が今でも残っています。また、頂上付近には弘法大師が修行をしたと伝えられる庵寺跡(海月庵)も残っています。 坂本龍馬が歩いた道として、高知県梼原町から愛媛県側へ抜ける「脱藩の道」が知られていますが、嘉永元年(1848年)坂本龍馬が14歳の時、この添蚯蚓を通って四万十川の改修工事で幡多へ行き、勤王の志士の指導者として知られる樋口真吉と出会ったと言われています。(高知新聞2009年5月5日朝刊掲載記事より抜粋) >>坂本龍馬脱藩の道・ゆかりの地紹介ページへ |
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「ヘンロ小屋 そえみみず・酔芙蓉(すいふよう)」 添蚯蚓遍路道への登り口付近に、小さな休憩所「ヘンロ小屋」があります。このヘンロ小屋は、2006年に亡くなった石橋敬子さんのご兄弟が、石橋さんが歩き遍路ツアーでの出来事を楽しそうに話していたことを思い出し、「姉の供養と遍路仲間への恩返しに」と、建築家の歌一洋氏(近畿大教授)が提唱する「四国八十八ヶ所遍路小屋プロジェクト」に資金の寄付をして建てられたものです。(プロジェクト31棟目の小屋です。)囲いには、石橋さんが生きた年月を示す69本の木を使用しています。お酒を飲むと、顔をすぐに赤らめ、遍路仲間から「酔芙蓉(すいふよう)」と呼ばれていたことにちなみ、「そえみみず・酔芙蓉」と名づけられました。また、初めて遍路道を歩いた時にお接待をしてくれた女性に分けてもらった酔芙蓉も植えています。(この写真は、2009年1月24日の完成式の様子です。) (毎日新聞2009年1月22日夕刊掲載記事より抜粋)
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遍路道・そえみみずについて この地・長沢弘岡から四万十町(旧窪川町)床鍋(とこなべ)に至る往還(おうかん:今の国道)を添蚯蚓(そえみみず)と呼んでいます。1700年頃に書かれた「土佐州郡志」という書物には「東西逶?如蚯蚓之状故名」と記されており、道の状態が左右に曲がりくねって前に進むミミズのさまに似ているので、この名がついたのではと本の作者は述べています。すぐ近くには「此ヨリあん迄24丁須崎カコヤ増平 文政12正月吉日」(文政12年は1829年)と刻まれた道標が建っています。道中にはおなみさんと土地の人に語り伝えられる遍路墓や弘法大師が旅人のために湧出させたと伝えられる弘法清水の跡があり、峠付近の庵跡には明治時代まで茶店もありました。今は黒竹林となっている庵跡はその昔、修行中の空海が久礼湾上の月を賞して「海月庵」という庵(いおり)をむすび、地蔵菩薩と自坐像を刻んだという空海修行伝説の地でもあります。中世以前からの幡多路への通り道であった往還・添蚯蚓も明治25年に大坂谷から七子峠(ななことうげ)に越す道が開通してからは廃道となりました。しかしこの添蚯蚓は近年、貴重な先人の足跡を残した遍路道として見直されようとしています。江戸時代の風情が残り、道中には弘法大師ゆかりの遺跡や遍路墓等が存在するこの道は、町のまた四国の財産として後世に伝えなければならない大切な文化遺産でもあります。平成15年3月 中土佐町教育委員会 (添蚯蚓遍路道登り口の看板より抜粋) |
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●添蚯蚓登り口
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添蚯蚓遍路道への登り口付近に、小さな休憩所「ヘンロ小屋」があります。このヘンロ小屋は、2006年に亡くなった石橋敬子さんのご兄弟が、石橋さんが歩き遍路ツアーでの出来事を楽しそうに話していたことを思い出し、「姉の供養と遍路仲間への恩返しに」と、建築家の歌一洋氏(近畿大教授)が提唱する「